こんにちは。遊佐です。
先日、このような記事を書きました。
金沢観光のルート案内をした中で、後半に「尾山神社」を登場させています。
今回は、その尾山神社について書きたいと思います。
尾山神社の神門にステンドグラスが付いている理由とは?そして擬洋風建築について。
加賀藩祖を祭った神社
尾山神社は、1873年(明治6年)に創立されました。
主祭神、つまり神として祭られているのは、加賀藩祖である「前田利家公」です。
尾山神社の創立は明治時代ですが、起源は江戸時代の1599年に遡ります。
利家公が没した後、その霊を祭ろうとしたのが、長男の前田家2代目「前田利長公」でした。
その際に卯辰八幡社を建てたのですが、藩の財政が次第に厳しくなるにつれて、やがて荒廃していきます。
明治に入り、改めて藩祖を祭る神社を建てようとして造られたのが、現在の尾山神社です。
ちなみに卯辰八幡社は、現在は金沢五社の1つである「宇多須神社」となっています。
東茶屋街の近くにあるので、よかったら行ってみて下さい。
神門
尾山神社といえば、入り口の神門を語らずにはおれません。
神門は国の重要文化財に指定されており、金沢市内の顔となっています。
ご覧の通り、異国を想起させる見た目なので、どんな設計になっているんだろと気になりますよね。
この尾山神社の神門を、3つの視点で簡単に解説していきます。
擬洋風建築
神門は3層構造で造られた擬洋風建築物です。
1階部分は、柱や梁を木で作成して、壁素材には洋風を意識した煉瓦を使用する「木骨煉瓦造」3連アーチ。
木造漆喰塗りの2階、3階は、階を上がるごとに小さくなっているのが特徴。
各階の肩部分が丸くなっているデザインは、中国の南方にある寺院で見られるものです。
日本最古の中国様式寺院である、長崎の「崇福寺」の三門も似た造りとなっていますね。
よく竜宮城のようだと形容されますが、まさに。
避雷針
屋根には、日本最古の避雷針が設置されています。ちなみに現役ですよ。
金沢は今でもですが雨がよく降る地域なんです。
当時、建設中だった神門を見たオランダ人医師が、金沢の天候を鑑みて避雷針の設置を進言したそうです。
ステンドグラス
最上階に埋め込まれたステンドグラスは、当時は灯台の役割を果たしていたと言われています。
今ではデザインの一部として、夜の金沢市内を魅力的に彩ってくれています。
ちなみに市内にあるスパニッシュ「レスピラシオン」の建物には、このステンドグラスと同種とされるものが使われているそうです。
ここまで尾山神社がどのように作られたのかを解説してきましたが、お分かり頂けましたでしょうか?
ちなみに解説の中で、神門が擬洋風建築様式で出来ていると書きましたが、この「擬」に違和感を感じませんでしたか?
僕も最初は、「擬」てことは、パクリなの?なんちゃって洋風?と思い、若干がっかりしかけたんですが、それは大きな勘違いでした。
ここからは、この擬洋風建築について話していきます。
ちなみに尾山神社に関する内容は以上でほぼ終わっているので、ここからは「擬」の不明を解決したい方だけ読み進んで下さい。
擬洋風建築物
どんな建築?
簡単に言うと、明治時代初期に日本伝統の技術を持った大工・棟梁が、西洋建築を模して造った建築物です。
ここで大事なのは、西洋建築様式ではないということです。
この時代には西洋建築物も存在しましたが、これらは実際にアメリカ人達が設計したもので、擬洋風とは全く別物です。
起源
明治初期は皆さんご存じの通り、日本の夜明けと言われる文明開化の時期です。
幕末期の日本は不平等条約を結ばされる程の弱小国家で、欧米列強との国力の差著しく、どうあっても彼らに抗うことは出来ませんでした。
そのため、以下のような手順を踏んで諸外国に対抗していこうとする考えが生まれます。
- 長く鎖国状態だった日本を速やかに開国
- まずは西洋諸国の技術を学習して国力を充実させる
- 国力が一定水準に達した後、改めて諸外国にケンカを売る
この開国論を、幕末期に一貫して主張して説いていたのが、当時の学者「佐久間象山」です。
残念なことに、後に開国論に反対する尊王攘夷派により暗殺されます。
開国後は明治政府が基本国策である「富国強兵」の元、日本の近代化を進めていきます。
日本の近代化、つまりは「西洋文化の迅速な吸収」を何よりも優先させたんですね。
この近代化の中で、積極的に西洋建築を学ぼうとする姿勢がやがて擬洋風建築を発生させます。
西洋建築物はこの時点で、雇われ外国人が実際に設計施工した都市部の主要施設として存在していました。
ここから派生していったのが、「擬洋風建築」です。
ただ西洋建築を「学ぶ」とはいったものの、マニュアルを教えられるわけでもなく、実際は見よう見まねに近かったんです。
なので擬洋風建築への着手は、想像を絶する程大変だったと思います。
だって今までの日本伝統技術しか知らない大工が、いきなり西洋建築物を見よう見まねで造るしかないんですからね。
特に地方では実際に建築物を見る機会がなく、建造物の錦絵や人から聞いた情報を頼りに造っていたので、さらに困難を極めました。
こうなってくると大工達のイメージ力、創造性がカギを握ります。
実物を見れないため当然同じものができるはずもないのですが、だからこそ尾山神社のように、ユニークな和洋折衷デザインが生まれたんです。
尾山神社を初めて見た時に、異国風の台座に日本の城郭みたいなモノが乗っかっている姿に不思議な印象をうけた方もおられるでしょう。
さらには中国様式の寺院のエッセンス(先述した各階の角の丸み)も混ざっています。
もうこの時点で、「擬洋風」ではなく、新しい建築スタイルになっているような気がします。
建築物の評価
この擬洋風建築は、都市部から地方へと広まっていき流行となりますが、残念ながら厳しい評価が下されることになります。
当たり前ですが西洋建築様式ではないので、見た目の一部を模倣したに過ぎない別モノだと批判され始めるんです。
これは言い換えると、擬洋風建築は富国強兵策の大切な要素「欧米列強の技術の習得」になっていないということになります。
技術の習得ではなく、安易な模倣であると断罪されているわけですね。
ただこの評価なんですけど、その後時代の移り変わりで、二転三転します。
大正時代には、それまで批判されていた擬洋風建築を、独創性があると評価されています。
そして戦後はまた、一転して批判されれことに。
先人たちの思い
このように擬洋風建築は、時代によって評価が変わるほど、中身というか定義が不安定なモノです。
もしかしたら現在でも、評価が別れているのかもしれません。
でも僕は、この建築様式の賛否よりも大切なことがあると思っています。
それは擬洋風建築様式が、大工・棟梁達が必死になって生み出したものだということです。
「日本を良くしよう」
「他国に負けない国にしよう」
「それには西洋文化を吸収しなければ」
日本の近代化を目指して国のことを想った気持ちこそ、何より評価に値すると思いませんか?
なので「擬洋風建築」という名前は、是非改名して頂きたいです。
「擬」なんて付けたら、あまり良いイメージを連想させないと思うんですよね。
実際僕も最初はパクリかなと思ったくらいですし。
言葉の力はとても大事なので、同じ内容を表すにしても、ポジティブな言葉にしたほうがいいと思います。
ちなみに専門家達の間でも、改名案の議論はされているとのことです。
改めて、擬洋風建築とは洋風のパクリなのか?という疑問への答えです。
「パクリ」ではありません。
近代化に邁進する者達が編み出した、オリジナルの建築様式です。
さて今回は、尾山神社と擬洋風建築について書いてきました。
尾山神社は、和洋折衷の擬洋風建築の中でも、中国様式が混ざっている珍しいデザインとなっています。
金沢に行かれる機会があれば、是非見に行ってみてください。www.yusanpo.com