こんにちは、遊佐です。
富山県高岡市には雨晴海岸という場所があるのですが、皆さんご存じでしょうか。
女岩と呼ばれる小島がアイコンである人気観光地になっており、隣接する道の駅「雨晴」が出来てからは一層沢山の人で賑わうようになりました。
そしてこの雨晴には「義経神社」が建てられています。
神社の下はこのような洞窟みたいになっており、日本史で英雄と謳われる源義経が兄の頼朝から追捕されている途中、ここで雨宿りをしていたとのことです。
雨晴と言う地名はこの伝承に由来しています。
義経は日本史上初めて、戦で戦術を使用した人物と言われています。
彼の名を一躍有名にした戦が、1184年に起きた世に名高い「一の谷の戦い」。
源氏軍を率いて断崖絶壁を駆け下り、崖下の平氏軍に急襲した電撃作戦で有名です。
垂直の崖を下る伝説「鵯越」が物語のクライマックスとして注目されがちですが、ここに至るまでに義経が展開した思考が素晴らしいので紹介しておきます。
戦の天才「源義経」の思考には現代に通じる普遍性があった
常識
一の谷の戦いはいわゆる源平合戦です。
当時は戦術という概念が存在していなかったので、戦の勝敗は兵数で決まるとされるのが常識でした。
この観念だと、兵数で大きく劣る源氏軍にとってこの戦は厳しいものでした。
なので多くの将は本部からの応援部隊を待ってから攻撃すべきだと主張します。
つまり、現状分析をしてから次の手を考えるという順序の思考法です。
しかし義経はそれとは全く逆の思考法を持っていました。
仮説を立てる
義経は敵の布陣内容や周辺地理などの現状報告を受けた時点で、例えこちらの兵力が増強されたとしても平氏軍には勝てないと分かっていました。
圧倒的に地の理に欠けていたからです。
そんな義経はまず平氏軍の気持ちになって以下のように考えます。
「前方にいるはずの源氏軍がある日突然姿を消して、数日後に自分達の頭上に現れたらきっとビックリするよね」
そして、そんなとんでもないサプライズを満たすような間道探しを始めます。
常識の垢がこびりついた将達は義経が何を言っているのか当然理解出来ません。
そして情報収集の結果、悪路とはいえ平氏軍の背後に繫がる間道が見つかり、義経は自分の構想が概ね正しいことを確信します。
つまり義経は問題に対する仮説を立てて、それに現在の状況を当てはめることで仮説が正しいことを先に検証したのです。
その上で作戦全体を組み立てました。
こうすることで物事の本質を見極め、流れを変えるほどの大胆な構想を打ち出すことができます。
また今何をする必要があるのかを導き出せるので、ゴールまでスピーディーに駆けることが出来ます。
固定観念
この仮説に基づいた作戦を立てた義経は、搦手(敵の手薄箇所を突く部隊)として兵を率い進軍を開始します。
その途上、義経は急に進軍を停止して偵察隊を放ちます。
将達はまた困惑して「なんでこんな場所から?」と質問します。
それもそのはず。
進軍停止した場所は平氏軍から約70キロも離れた地点だから、敵兵なんているわけがないと普通は思うんです。
すると偵察隊が戻ってきて衝撃的な報告をします。
「約10キロ先に平氏軍が野営している」
将達はまさかの報告にビックリして、なぜ敵の布陣に気づいたのかを義経にたずねます。
ですが義経は将達が驚いていることに驚き、逆に聞き返します。
「敵がこんな場所にいないと何故決めつける?」
自分がこの隠密作戦を着想できたということは、平氏軍の誰かが同じように考えて前哨部隊を差し向けていても全く不思議ではないと、義経は考えていたのです。
ここに敵兵がいるわけがないという固定観念に一人囚われていなかった義経は、この前哨部隊を蹴散らした後、仮説通りに敵陣背後を急襲して平氏軍を大混乱させることに成功しました。
戦略性に欠けた
義経という人物は常に常識に囚われず、誰もが思いつかない方法を編み出す創造力と、仮説を立ててから行動する論理的思考力を持ち合わせた稀代の戦術家でした。
ただ残念なことに義経は性格が純粋だったことも禍し、戦略性に欠けていたのです。
源氏軍の総大将であり兄でもある頼朝が目指していたのが初の武家政権(鎌倉幕府)の構築。
これは義経が得意とした戦術に対して、国全体を俯瞰した戦略といえます。
いくら戦術が成功しても、その元となる戦略が失敗すると何の意味もありません。
戦略の失敗は戦術ではカバーできないのです。
頼朝の戦略を成功させるには長く続いた公家社会、又は律令体制から脱却しなければいけないのですが、その最大の障壁となっていたのが朝廷のトップであり策謀家としても名高い後白河法皇。
この法皇が言葉巧みに義経を操り利用して、頼朝の思惑をくじこうとします。
当事者である義経は操られている意識はなく、逆に自分の行動が兄の為になっていると解釈しており、頼朝の戦略を全く理解出来ていません。
この時すでに義経は、頼朝の戦略を根底から揺るがしかねない危険なものになっていたんです。
頼朝は義経をコントロール不能の危険因子と判断し、最終的には自害に追い込みます。
軍神の如く活躍した義経は高度な戦術家ではありましたが、戦略家としての資質に欠けたために起きた悲劇でした。
とはいえ義経の戦術家としての能力は通常の物差しでは測れないほどの類稀なものでした。
それは戦術が戦略を上回りかねないほどのもので、だからこそ頼朝は義経の排除を決断します。
たらればですが、頼朝の戦略と義経の戦術が合わさっていればどうなっていたのか考えただけでも戦慄モノです。
まとめ
さていかがでしたか?
現代に通じる義経の思考に興味がある方は、司馬遼太郎の「義経」を是非読んでみて下さい。
また雨晴海岸は本当に気持ちがいい所なので、こちらも是非遊びに行って下さい。
天気が良ければ、立山連峰をバックに絶景の海景色が見られますよ。
疲れた時には道の駅「雨晴」で、外の景色を眺めながら美味しいご飯を食べましょう。
それでは今回はこのへんで。
最後まで読んで頂きましてありがとうございます。